終戦から68年。平和憲法9条を守り生かす決意新たに宣伝
8月15日、68回目の終戦の日、戦争はしないと誓った戦後の原点に立ち返り、平和憲法9条を守り、生かす決意を改めて表明する宣伝を行いました。
日本がおこした侵略戦争は、アジアで2000万人、日本で310万人もの尊い命を奪いました。
その反省にたって、日本は「戦争はしない」「、「軍隊はもたない」と憲法で約束し、国際社会に復帰しました。
ところが今、侵略戦争を正当化するなど、戦後政治の原点を否定する動き、「国防軍」をつくるなど、憲法を変えて日本を戦争する国にしようとする危険な動きが強まっています。
戦争で犠牲になられたすべての方々に心からの哀悼の意を表し、日本共産党は、侵略戦争の時代から、命がけで戦争反対を貫いた政党として、再び日本を戦争する国には、絶対にさせない決意で力いっぱいがんばることを御誓いしました。
今、安倍首相は、 内閣法制局長官を自分と同じ考えの人に変え、憲法解釈を変えて集団的自衛権を行使する道をひらこうとしている危険性についても訴えました。
政府はこれまで、集団的自衛権の行使は、今の憲法ではできないと言ってきました。自衛隊がインド洋やイラクにいっても「武力行使はしない」「戦闘地域で活動しない」と言ってきました。
集団的自衛権の憲法解釈を変えて、この歯止めを取り払い、アメリカと一緒に海外で戦争できる国に変えようというのです。
集団的自衛権は、アメリカのベトナム戦争、旧ソ連のアフガニスタンへの侵略など無法な侵略戦争の口実として使われてきました。
そして、日本に集団的自衛権の行使を認めるように要求しているのはアメリカです。
こうした安倍自公政権の暴走を許さず、平和憲法9条を守り、生かすために力を合わせましょうと訴えました。
「がんばれよー!!」と握手をしてくださる方、「原発マネーをもらっている自民党や民主党の人たちが原発を推進するんですね。アベノミクスって、本当に私たちには何も恩恵がないですね。がんばってください」と握手をしてくださる方などの激励に元気をいただきました!!
ピースあいち「はだしのゲン」展示見学と満蒙開拓団のお話
その後、名東区にある「戦争と平和の資料館 ピースあいち」に行き、「追悼 中沢啓治 絵本はだしのゲン原画とマンガ展」をみて、愛知県東三河出身の満蒙開拓から帰還された方々から聞き取り調査をされた平田和香さんのお話を聞きました。
「はだしのゲン」の展示をみて、中沢啓治さんのするどい眼、視点を改めて感じることができました。「はだしのゲン」のカラーの原画を見ることができ、また、1973年の「はだしのゲン」が掲載されているジャンプも読むことができました。
ジャンプにこうした政府や権力を批判する内容の漫画が載るなんて今では考えられないことだと思いました。日本共産党が躍進していた時期、革新の気風が強く流れていた時期だからこそ、掲載されたのだなと思いました。
平田和香さんのお話では、平田さん自身も一宮で空襲にあい、ご自宅をなくされたそうです。
最初、日本がポツダム宣言を受諾しなかったことによって、一宮は空襲で8割消失してしまったと語られました。
終戦は、疎開先で満4歳のときに迎え、何か戦争について感じている最後の世代だと思うと語られました。
以下は、平田さんのお話のメモです。
◆満蒙開拓団は長野県の出身者が多かったが、愛知県でも1つだけあった。
◆満蒙開拓団は、第1次~14次あったが、愛知県は第9次の第三号で東三河団(北設楽郡中心)があった。6人の方にお話をお聞ききし、お一人は亡くなられ、3人は施設に入所し、2人がお元気。
◆お話を冊子にまとめたが、多くの人にわかるように紙芝居をつくった。
◆1931年、柳条湖事件に端を発した満州事変。関東軍による満洲全土が占領。。関東軍の主導のもと同地域は中華民国からの独立を宣言し、1932年3月、満洲国の建国。日本はインド、ビルマまで支配下においた。
◆愛知県の満蒙開拓団は、下関に行き、満州国チチハルに行き、その200キロ奥地に行った。
◆愛知県が満蒙開拓団募集が遅いのが、軍事工場や軍事施設があり、仕事があったから。しかし、国策ということで、愛知県が300戸募った。
◆最初は、20歳以上だったが、集まらないので、未成年が対象になった。13歳~16歳の子たちが、極寒の地へ行かされた。
◆愛知は労働力不足で、中国や朝鮮から人が愛知へ強制連行・労働された。
◆山あいの農村地帯では、次男や三男に分ける土地もなかった。借地料も高かった。政府は人口調整のためにも「王道楽土」と言って、広い土地をもらえて楽できると募集した。
◆開拓団からも兵隊がたりず、兵隊にとられ、フィリピンへ行かされた人もいる。残ったのは、高齢者、女性、子どもが中心。
◆満州国の現地では、冬はマイナス40度にもなる地域。しかし、学校も病院もあったし、一生懸命働いた。ひとつの畝が2500mもある広い畑で、食べるのには困らなかった。
◆その広い畑は、中国の人が耕した土地で、二束三文で買ったか、あるいは奪った土地だった。
◆ある人は、小作の子だった。小作の子が中国の人を雇うなどした。日給が多かった。土地を奪われて、さらに奥地を開拓する中国の人もいた。アメリカが沖縄の人から土地を奪い、ボルネオに移民させたと聞いたが、それと同じことを日本もやってきた。
◆1戸20町歩だった。88%中国の方の既耕地と言われている。
◆1945年8月15日の終戦は知らされず、10月から逃避行がはじまった。しかし、途中で寒さのため、その場で越冬することになった。60畳に80人が暮らす生活。栄養も足りない。80人が亡くなった。埋葬は形だけだった。
◆翌年の春、出発し、チチハルへ200キロ歩いた。ソ連兵の強奪、強姦などもあった。命と隣り合わせ、地獄そのものだった。ソ連兵に強姦された女性は、子どもを麻酔もないなかで、堕胎するなどしていた。臨月で自殺した女性もいた。
◆チチハルの収容所では、しらみ、発診チブス、栄養失調で、11人家族が小学1年生1人になってしまった家族もいた。収容所は、まるで幽霊屋敷のようだった。
◆屋根のない滑車で移動。亡くなる人もいた。やっとの思いで船に乗ったとたんに亡くなる方もいた。海に葬り、船で3回転して「ボー」と汽笛を鳴らした。
◆472人の団員のなかで138人がなくなり、中国に残ったか、行方不明の方が27人、帰ってきた人305人。
◆帰国しても家も畑も田んぼもない。山奥に開拓に入るしかなかった。木を伐り、焼き畑をして、作物をつくる。つくってもイノシシにやられることもおおかった。営林所の手伝いや新幹線の建設などの仕事もやった。
◆日本の子どもも中国の人も戦争がなければ、命が粗末にされることがなかった。
◆日本は、満州開拓団の帰国になにも手を貸さなかった。アメリカ、中国、個人が尽力。
◆細菌部隊にいた人の話も聞いたが、先に帰ったので、逃避行などしていないから離せないと言い、本当は戦犯なのに、細菌部隊の情報を渡す代わりに戦犯ものがれたと言っていた。
◆戦争のとき、一般の人は、知らなかった。戦争も原発も知らなかった。しかし、もう知らなかったで、済まさないようにしていこう。知る努力をしていこう。
《会場からの発言》
◆私も満州に行っていた。関東軍は、満蒙開拓団などをおいて、先に帰っていった。軍隊は、国民を守るのではなくて、権力を守るものだとその時痛感した。軍の幹部は食料もたくさんあった。許せない思い。国防軍と言っているが、軍とはそういうもの。
平和を語る八月名古屋集会「憲法21条とメディア」
夕方からは、「2013 平和を語る八月名古屋集会」に参加し、「憲法21条とメディア テレビは私たちの願いに応えているか?」と題する津田正夫さんの講演をお聞きしました。
津田さんは、NHK時代に長良川河口堰の問題を取り上げた際に、今の国土交通省から圧力があったこと、工場汚染問題を取り上げようとした際にも他局よりも突出した報道は控えるような圧力があったことなど具体的にお話されました。
また、今の若い世代の方々は、テレビも新聞もみない方も多く、ラジオの存在自体知らないことも多いと学生さんに教えていることから現場の実態を紹介されました。
テレビなどは、若者が直面している問題などを取り上げていないのではないかと疑問を呈しました。
言論・表現の自由は、近代自由主義に基づく市民革命と民主主義の基本概念であること、日本国憲法は、「日本の人権宣言」(古関彰一氏)であること、言論・表現の自由は、マスコミが主体としてあるのではなく、民衆・市民・住民のものであることなどお話されました。