もとむら伸子(日本共産党衆議院議員)-
レポート

【13・08・12】金山総合駅前で早朝宣伝/「あいち平和のための戦争展」―展示見学や戦争体験を聞く会や日韓高校生交流企画に参加

カテゴリー:

 
 8月12日、金山総合駅前で早朝宣伝を行いました!

 山口きよあき名古屋市議、河江明美さん、八田ひろ子元参院議員、県委員会メンバー、後援会の皆さんと一緒です。

 核兵器をなくす問題、9条守りぬく決意、ブラック企業への対策に厚生労働省が動きだしたこと、原発をなくすために声を一緒にあげましょうなど訴えました。

 参議院で11議席になったことや原発即時ゼロを書いたチラシの受け取りもよく、「入れましたよ。ポスターはみていたけれど本物はじめてみたよ!!がんばってね」との激励や「応援しています。バスを下りるのも、足が悪いので苦労します。何とかしてほしいです」とのご要望が寄せられました。

 皆さんの期待に応えるべく、全力で頑張りぬきたいと思います。

「あいち平和のための戦争展」―展示見学や戦争体験を聞く会や日韓高校生交流企画に参加

 
 8月12日、「あいち平和のための戦争展」に八田ひろ子元参院議員と一緒に行ってきました。

 過去の日本が起こした侵略戦争の加害と被害の実態、ベトナム戦争、イラク戦争での子どもたちへの被害などを知らせ、未来の平和を築くうえで大事な内容です。

 日韓高校生交流企画では、韓国の高校生から、「日本に来るまでは日本人にたいしてよくないイメージをもっていたが、日本にきて、それは偏見ではないか、と思うようになった。周りの人にも伝えて、悪いイメージを変えていけたらと思う」、「平和憲法を変える行為は、被害者の方に賠償や謝罪をしないことを正当化する表れだと思う。日本が9条を変えることなく、日本と韓国が守って、互いに理解しあって、謝罪すべきはちゃんとして、9条を守ることが大事」など率直な意見が出されました。韓国側の先生からは、韓国でもベトナム戦争など加害についてちゃんと解決していない問題を抱えていることも報告されました。
 日本と韓国の高校生の交流と相互理解と友情が、希望になるようなとてもよい企画でした!!

 戦争体験を聞く会では、安倍自公政権の集団的自衛権容認の法制局長官人事や憲法改定の危険な動きがあるなかで、戦争体験を語り継ぐことが大事になっていることが強調されました。

 今年の長崎市原爆犠牲者慰霊平和祈念式典での田上富久市長の平和宣言でも「かつて戦争が多くの人の命を奪い、心と体を深く傷つけた事実を、戦争がもたらした数々のむごい光景を、決して忘れない、決して繰り返さない、という平和希求の原点を忘れないためには、戦争体験、被爆体験を語り継ぐことが不可欠です」と語られました。

 また、長崎の被爆者代表の築城(ついき)昭平さん(86)が語られた平和への誓いでも「そして今、平和憲法が変えられようとしています。わが国が再び戦争の時代へ逆戻りをしないように、二度とあのような悲惨な体験をすることがないように、被爆者のみなさん、戦争を体験した世代のみなさん、あなたの体験をまわりの人たちに伝えてください」と強調されています。

 「気持ちを込めてお話をしたい。そういう時期にきている」と司会の安間慎さんは述べられました。

 この日、語ってくださったのは、愛知宗教者平和の会の廣瀬務さん(真宗大谷派西祐寺)、名古屋学童疎開を記録する会の小島鋼平さん、愛知・平和遺族会の緒川文子さんが、豊橋空襲を記録する会の安間慎さんでした。

 私が聞きとることができたものを書き出しますが、正確でないかもしれませんので、ご了承ください。

 
◆愛知宗教者平和の会の廣瀬務さん(真宗大谷派西祐寺)

 1937年に小学校入学。父親からは、お寺に生まれたのだから、神様にお参りをする必要はないと言われていた。
 集団で学校から護国神社に隊列をくんで参拝にいった。そこに仏教界の呼びかけだと思うが、護国神社に隊列を組んで参拝している父親の姿をみてショックだった。父親の心情を慮った。小学4年生の時、太平洋戦争、真珠湾攻撃がはじまった。
 1943年に東海中学に入った。中学2年で学徒勤労動員で、大曽根、大幸の三菱重工業名古屋発動機製作所大幸工場第三工作部にいった。12月13日、名古屋の三菱にたいする銃弾爆撃がはじまった。完全に生産能力は失われた。軍国教育を受けた少年だったので、怖いとも思わず、怖がっていた年寄りをみて、だらしがないと思っていた。軍国教育で死ぬことを怒れない教育を受けた。
 須ヶ口の三菱に移動し、働いた。石炭を運んでいた。そこで戦争が終わった。
 戦後、何をしてきたのか、と考えた。
 自分は戦争責任があるのかないのか、考えた。
 中学生だったが、兵器生産を担ってきた戦争責任。
 もっと大きな戦争責任があるのではと考えた。
 真宗大谷派としても戦争責任があるのではないか。
 命をすててこれば、靖国の神になる。それは、仏の浄土と一緒と教えていた。
  織田信長とたたかって、石山本願寺派屈服。民衆とともにあったのに、江戸時代には幕府側について、檀家制度のなかで、支配体制の最後の一端を担っていた。その体質が明治になっても変わらず、無批判に加担していくことになった原因ではないか。
 豊臣側が西本願寺、幕府側が東本願寺だったが、禁門の変後、政府べったりの教団になった。
 戦時中の大きな罪がある。北京、西安、上海に別院をつくって、海外布教をしていたが、それは、軍の特務機関の詰所だった。
 1969年に宗門内の紛争があった。右翼がからんだり、脅しがあったり、いろんな経過のなかで、本当の宗教というものがわかるようになり、平和をめざす方向になった。
1995年には、真宗大谷派として「不戦決議」をあげた。

・・・・・・・・・・・・・・
「不戦決議」
「私たちは過去において、大日本帝国の名の下に、世界の人々、とりわけアジア諸国の人たちに、言語に絶する惨禍をもたらし、佛法の名を借りて、将来ある青年たちを死地に赴かしめ、言いしれぬ苦難を強いたことを、深く懺悔するものであります。

 この懺悔の思念を旨として、私たちは、人間のいのちを軽んじ、他を抹殺して愧じることのない、すべての戦闘行為を否定し、さらに賜った信心の智慧をもって、宗門が犯した罪責を検証し、これらの惨事を未然に防止する努力を惜しまないことを決意して、ここに 「不戦の誓い」を表明するものであります。

 さらに私たちは、かつて安穏なる世を願い、四海同朋への慈しみを説いたために、非国民とされ、宗門からさえ見捨てられた人々に対し、心からなる許しを乞うとともに、今日世界各地において不戦平和への願いに促されて、その実現に身を捧げておられるあらゆる心ある人々に、深甚の敬意を表するものであります。

 私たちは、民族・言語・文化・宗教の相違を越えて、戦争を許さない、豊かで平和な国際社会の建設にむけて、すべての人々と歩みをともにすることを誓うものであります。
右、決議いたします。
                     1995年6月13日
                         真宗大谷派 宗議会議員一同
                     1995年6月15日
                         真宗大谷派 参議会議員一同」

・・・・・・・・・・・・・・・・

日本国憲法
「 第二十条  信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない。
○2  何人も、宗教上の行為、祝典、儀式又は行事に参加することを強制されない。
○3  国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない。 」
第20条2項には、強制されないと書いてある。護国神社参拝は強制された。でも心はこもったものではなかった。
 大谷派は、戦勝祈願の法要は一度もやっていない。
 戦争の悲惨さを語りつぐだけではだめで、加害責任を自分で反省するべきだと思う。加害の歴史を謝罪してはじめて、世界の平和が実現できると思う。拉致問題も加害責任を反省すれば、問題は解決できると思う。日本の政治は逆に向かおうとしている。
 特攻隊だったいとこの最後の遺書は「借金なし 女なし 思い残すことなし」と書いた。
 いかに洗脳されていたか。特攻隊は自爆テロ。国家神道はカルト宗教だった。
 日本国憲法20条を自民党の改憲案では、どう変えられようとしているのか。
「3 国及び地方自治体その他の公共団体は、特定の宗教のための教育その他の宗教的活動をしてはならない。ただし、社会的儀礼又は習俗的行為の範囲を超えないものについては、この限りでない。」(自民党改憲案)と習俗を認めている。習俗とはお祭りなどのことだが、こういう感覚的世界に導こうとしている。習俗こそ国家神道を生み出す。

 
◆名古屋学童疎開を記録する会の小島鋼平さん

 1932年、北区で生まれた。私は、6年生で言ったので記憶が残っている。1944年8月15日、集団疎開した。農作物をつくるなどして暮らしていたが、東南海三河地震があり、さらに山奥へと疎開した。
 最初は、縁故疎開だった。防火地帯を設ける為に、計画した防火帯にかかる建築物を壊し、追われた人が縁故疎開していた。
 学童疎開は、1944年の4月から始まった。軍部が、学校にたいし、集団疎開せよと命令したが、学校の教師がなかなか、うん、と言わなかった。名古屋は比較的順調に疎開が完了した。いつどこへいくのか、中学の入学はどうなるのかという心配の声があったが、名古屋の原簿で名古屋の中学に入れてくれるということで、集団疎開が進んだ。幡豆郡横須賀村という豊かな村にお世話になった。村人は親切だった。地震は1944年12月7日だった。1945年1月13日、真夜中に三河地震があった。お寺が目の前で崩れた。
 (B29が132機、編隊で飛行するイメージ図を示す)
 10発の1トン爆弾をそれぞれ積んで、全滅作戦。B29は、機密兵器だった。原子爆弾の開発には20億ドルが投資され、B29は、30億ドルが投資された。
 B29については、1944年6月30日の今の中日新聞に小さな記事が出た。1944年8月29日付記事は、半ページにB29を解剖する記事がでた。アメリカのデータだっただろう。

 
◆愛知・平和遺族会の緒川文子さん

私の家は、有松郵便局の前で和菓子屋をやっていた。戦争が深刻になるとまんじゅうやはできなくなった。父親は、中京競馬場近くの今の少年院のような施設の職員になった。1944年、父親が31~32歳の時に、赤紙が来た。
 父親は、湖南殲滅作戦に生かされた。中国軍5にたいし、日本軍が1だった。コメは前方でとれとの命令。B29に狙われないように用心しながら進んだ。農家の豚やニワトリ、カボチャなどを略奪した。飢えや伝染病などとのたたかい。緑区でその作戦に行っていた方の話では、夜間行軍で雨や泥で大変だった。どこで寝たのかというと、ぬかるんだところか、歩きながら。地獄のような状態。父親は病院に入った。子煩悩で、手紙をよくくれた。国からの養育費はきられ、困ったと母親が手紙をかくと、実家に相談せよなどの手紙も残っている。5人の子どもを抱えた母親も大変だったと思う。結局、縁故疎開で中津川に行った。戦後、父の遺骨を共和駅まで歩いて母親と5歳の弟が12キロ歩いて取りにいった。妹は、お寺にもらわれた。「どうして私だけいくの・・・」と言っていた。
 母親は、戦争未亡人になって記事にのったが、私がへこたれたら、子どもがどうなるのかと必死だったと語っていた。
 今、憲法変えるとか、強い国にするとか言っている。
 1947年8月に文部省が「新しい憲法のはなし」という冊子をつくった。
 「みなさんの中には、こんどの戰爭に、おとうさんやにいさんを送りだされた人も多いでしょう。ごぶじにおかえりになったでしょうか。それともとう/おかえりにならなかったでしょうか。また、くうしゅうで、家やうちの人を、なくされた人も多いでしょう。いまやっと戰爭はおわりました。二度とこんなおそろしい、かなしい思いをしたくないと思いませんか。こんな戰爭をして、日本の國はどんな利益があったでしょうか。何もありません。たゞ、おそろしい、かなしいことが、たくさんおこっただけではありませんか。戰爭は人間をほろぼすことです。」と書いてある。
 私は、戦争遺児として、兵士も悲しいが、残された家族を誰もめんどうをみてくれない。
 憲法9条は父からの遺言だと思って、今、それを胸に生きている。
 今、地域の戦争体験を語り継ぐ会をやると若い方も参加してくれる。安倍さんの危険な動きに危機感を持っているようだ。
 平和遺族会は、憲法9条を守る運動と、戦没者の家族を守る活動をしている。国は制度を知らせておらず、2011年で962億円支払われていない。恩給も1994年の時点で大将だった人は740万円なのに、一兵卒は120万円と差がある。愛知県とも交渉し、認知されてきた。

 
◆豊橋空襲を記録する会の安間慎さん

 私は、1942年1月1日に生まれた。本当は1941年12月26日に生まれた。私の名前は「慎」だが、ほかの子どもたちの名前は、雄々しいものが多い。「勝志」「勝子」「紘一」などなど。私は、1941年12月8日の真珠湾攻撃のすぐ後にうまれた。
 昭和区の母の実家が昭和区にあったが、1944年3月の空襲で街が丸焼けになって、3~4歳だったが、空が真っ赤だったこと、防空壕のベンチで大泣きしたことを覚えている。サイレンの音で今でも空襲を思い出す。戦争の問題の橋渡しをする世代ではないかと思っている。それで45年間、こういう活動をしている。
 結婚で渥美半島に来た。妻は、戦争で母一人、子一人になった人。
 豊川工業高校の教師になったときに、海軍工廠のことを調べ、豊川空襲、豊橋空襲を調べることとなった。
 1945年6月20日、豊橋大空襲があった。この年の3月~6月に大都市に大空襲があり、その後、豊橋6月、岡崎7月というように中小都市に移った。
 豊橋では、B29が136機きた。141機出撃したようだが、アメリカの資料を見ると5機は「無効果出撃」と書かれている。624人の方がなくなった。
 624人の方々は、仮土葬された。焼くと煙がでて、米軍に狙われるから。せめて亡くなられた方々、お一人お一人のお名前を明らかにして、追悼碑に刻みたいと活動している。
 前芝中学に語りにいったときに、学徒動員に行った子どもたちが豊川海軍工廠で亡くなっている追悼碑があって、子どもたちの名前が書かれていることを校長先生が案内してくれた。全校生徒の出校日にそのことを生徒さんたちに伝えている。きちんと伝えていることが大事。
 FM豊橋でも朗読など30分の番組をやっていた。地域の空襲、何番地のどこそこまで焼けたということまで、わかる取組を続けていきたい。
 義理の父は、遺骨も帰ってきていない。海に沈んだまま。伊三六一型潜水艦に回天5機つんでいた。
 1945年5月24日、海軍手帳をやぶって、4か月の娘、両親、妻あてに4通の手紙を書いた。陸上勤務の人づてに頼んで、検閲なしで、家族の手元に届いたので、遺品として残っている。
 義理の父は、5月30日、アメリカに撃沈され、遺体はあがっていない。

《参加者からの発言や回答》

◆仏教の方々が力をまとめて、平和のことや原発のことをやっていただけたら。
◆熱田空襲にあった祖母や母から、堀川が死体だらけだったこと、爆弾で吹っ飛ばされた郵便局の人が木に引っかかっていたことなど聞いている。
◆子どもが県立高校に行っているが、君が代、日の丸を何も疑いもせず、厳粛に行われる現実に違和感をもった。日本は戦争の加害者でもあり、被害者でもあること、罪深いことなどを、学校教育でどうしたら真実、本当のことを学べるのか。
◆豊橋空襲を記録する会では、40人の語れる人がいる。各学校に行きますので、読んでくださいとお知らせすると、5校から要望があった。各校2名ずついって、10人くらい出前講座で語っている。各地区ごとの出前講座もあり、昨日も行ってきた。感想など出し合ってもらって、どうやって継承していくのか。戦争は止めることができなかったのか、もう一度、そうならないためにはどうしたらいいかなど、感想・意見を出し合って交流するといいと思う。
◆絵付け職人だった父は、新聞を広げて、転進、転進・・・とあるのをみて、「まあ、この戦争は負けだな」と言った。国民学校生で、天皇陛下の御ために死ねと教育された私は、父の胸ぐらをつかんで「父ちゃん、非国民」と言った。上の兄は、戦地に行っていた。大きな声で本音を言えなかった大人たちがいた。
 今、平和遺族会に入ってやっているが、戦争は、普通のくらしも命も奪ってしまうもの。
◆戦争中になくなった軍人は、立派なお墓。しかし、中身がないものが多いのではないか。南方戦線は、戦病死といって餓死が多かった。遺骨の箱のなかに何が入っていたのか。何も入っていないものが多いのではないか。今でも国民の遺骨の収集さえ、ほおっておく国は、また同じことを行うのではないか。(戦争中になくなった軍人は、国や自治体が支援して立派なお墓。戦後に死亡が確定したら、普通のお墓)
◆あの戦争には抵抗した人たちがいた。宗教者、共産党、個人など。それが希望になった。この抵抗がもっと大きければ、戦争にはならなかった。ドイツやイタリアは、戦後、国旗、国歌を変えたのに、日本は変えていない。

 

 

© 2010 - 2021 もとむら伸子(日本共産党衆議院議員)