2010年10月4日 日本共産党
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日本の尖閣諸島周辺で起きた中国漁船と海上保安庁巡視船の衝突事件をきっかけに、尖閣諸島の領有権にかかわる日本と中国の主張の対立が、国際的にも注目を集めている。日本共産党はすでに1972年に日本の尖閣諸島の領有は正当であるとの見解を発表しているが、この機会にあらためて尖閣諸島の領有の正当性について明らかにする。
1、日本の領有と実効支配
近代まで「無主の地」
尖閣諸島の存在は、古くから日本にも中国にも知られており、中国の明代や清代の文献に登場する。当時、琉球は中国との間で朝貢貿易をおこなっており、中国の使節である冊封使が琉球国王の代替わりにさいして往来した。琉球と中国大陸の福州とを結ぶ航路のほぼ中間に位置する尖閣諸島は、海路の目標とされていた。しかし、中国側の文献にも、中国の住民が歴史的に尖閣諸島に居住していたことを示す記録はなく、明代や清代に中国が国家として領有を主張していたことを明らかにできるような記録も出ていない。
一方、日本側にも、この時期について日本の領有を示すような歴史的文献は存在しない。近代にいたるまで尖閣諸島は、いずれの国の領有にも属せず、いずれの国の支配も及んでいない、国際法でいうところの「無主の地」であった。
日本による領有
「無主の地」の尖閣諸島を1884年(明治17年)に探検したのは日本人古賀辰四郎だった。古賀氏は翌85年に同島の貸与願いを申請した。同島でアホウドリの羽毛の採取などが試みられ、周辺の海域で漁業をおこなう漁民の数も増えるなか、沖縄県知事は実地調査をおこなうこととし、尖閣諸島が日本の領土であることを示す国標を建てるべきかどうかについて、政府に上申書を提出する。政府内での検討の結果は、国標を建てて開拓にあたるのは他日の機会に譲る、というものだった(『日本外交文書』第23巻)。
日本政府はその後、沖縄県などを通じてたびたび現地調査をおこなったうえで、1895年1月14日の閣議決定によって尖閣諸島を日本領に編入した。歴史的には、この措置が尖閣諸島にたいする最初の領有行為である。これは、「無主の地」を領有の意思をもって占有する「先占」にあたり、国際法で正当と認められている領土取得の権原のひとつである。
日本の実効支配
日本政府は、尖閣諸島を沖縄県八重山郡に編入したあとの1896年9月、以前から貸与を願い出ていた古賀辰四郎氏に4島(魚釣、久場、南小島、北小島)の30年間の無料貸与の許可を与えた。古賀氏は尖閣諸島の開拓に着手し、貯水施設、船着き場、桟橋などの建設をすすめ、アホウドリの羽毛の採取や鳥糞の採掘などを主な事業にして「古賀村」が生まれた。これが尖閣諸島における最初の居住である。大正期に入ってからは鰹節の製造や海鳥のはく製製造がおもにおこなわれた。最盛期には漁夫やはく製づくりの職人など200人近い人びとが居住していた。
1919年には、中国福建省の漁民が魚釣島付近で遭難し、同島に避難した31人を住民が救助し、全員を中国に送還した。この救援活動にたいし、中華民国の長崎駐在領事から、1920年5月20日に感謝状が届けられた。感謝状のなかには、尖閣諸島がはっきりと日本の領土として記述されていた。
このように、尖閣諸島にたいしては、第二次世界大戦まで中断することなく日本の実効支配がおこなわれてきた。
1945年の日本の敗戦により、日本が中国から奪った台湾などの地域は、連合国のカイロ宣言(1943年11月)やポツダム宣言(1945年7月)にもとづいて、中国への返還が決められ、実行された。このなかには、尖閣諸島は含まれていない。
尖閣諸島は、沖縄の一部として、アメリカの軍事支配下におかれることになった。1951年9月に調印されたサンフランシスコ平和条約によって、尖閣諸島を含む「北緯29度以南の南西諸島(琉球諸島及び大東諸島を含む)」などは米軍の施政権下に置かれ、米国は、一定の地代を支払うことと引き換えに、尖閣諸島の大正島と久場島を米軍射撃場として使ってきた。施政権は奪われていたとはいえ、尖閣諸島にたいする主権は日本にあった。日米の間で1971年6月に調印された沖縄返還協定が1972年5月15日に発効したことにともなって、尖閣諸島の施政権は日本に返還され、今日にいたっている。
2、国際法上明白な日本の領有
中国は75年間異議をとなえず
中国側は、尖閣諸島の領有権を主張しているが、その最大の問題点は、中国が1895年から1970年までの75年間、一度も日本の領有に対して異議も抗議もおこなっていないという事実である。
中国、台湾が尖閣諸島の領有権を主張しはじめたのは1970年代に入ってからである。台湾は1970年に尖閣諸島の領有を初めて主張し、71年に入って主権声明を出した。中国政府は、1971年12月30日の外交部声明で領有権を公式に主張した。尖閣諸島のある東シナ海から黄海について、国連アジア極東経済委員会(ECAFE)は、1969年5月に公刊した報告書で、石油天然ガスの海底資源が豊かに存在する可能性を指摘していた。
侵略による奪取とは異なる
尖閣諸島に関する中国側の主張の中心点は、同諸島は台湾に付属する島嶼として中国固有の領土であり、日清戦争に乗じて日本が不当に奪ったものだ、という点にある。
日清戦争(1894~95年)で日本は、台湾とその付属島嶼、澎湖列島などを中国から不当に割譲させ、中国への侵略の一歩をすすめた。しかし、尖閣諸島は、日本が不当に奪取した中国の領域には入っていない。
この問題では、台湾・澎湖の割譲を取り決めた日清講和条約(下関条約)の交渉過程、とりわけ、割譲範囲を規定した同条約第2条の「二、台湾全島およびその付属諸島嶼」のなかに尖閣諸島が含まれていたのかどうかが、重要な論点となる。
第一に、経過の点で、日本が尖閣諸島の領有を宣言したのは1895年1月14日であり、台湾・澎湖の割譲を取り決めた講和条約の交渉が開始される同年3月20日よりも2カ月ほど前のことである。
第二に、下関条約は、割譲範囲について第2条で、「台湾全島及其ノ附屬諸島嶼」、「澎湖列島即英國『グリーンウィチ』東經百十九度乃至百二十度及北緯二十三度乃至二十四度ノ間ニ在ル諸島嶼」と規定しており、尖閣諸島については一切言及してない。
第三に、下関条約を締結する交渉の過程で、中国側の代表は台湾とその付属島嶼や澎湖列島の割譲要求にたいしては強く抗議したが、尖閣諸島についてはなんら触れなかった。かりに中国側が尖閣諸島を自国領土だと認識していたならば、尖閣諸島の「割譲」も同じように強く抗議したはずだが、そうした事実はない。それは、公開されている交渉議事録から疑問の余地がない。
第四に、1895年4月17日に下関条約が締結されたのちの同年6月2日、「台湾受け渡しに関する公文」に署名する際、台湾の付属島嶼とは何かが問題になったときに、日本側代表は、台湾の付属島嶼は、それまでに発行された地図や海図で公認されていて明確だとのべ、中国側はそれを了解している。当時までに日本で発行された台湾に関する地図や海図では、例外なく台湾の範囲を、台湾の北東56キロメートルにある彭佳嶼までとしており、それよりさらに遠方にある尖閣諸島は含まれていない。尖閣諸島は、台湾の付属島嶼ではないことを、当時、中国側は了解していたのである。いま、中国側は、尖閣諸島が台湾付属の島嶼であり、日本によって強奪されたと主張しているが、それが成り立たないことは、この歴史的事実を見れば明らかである。
中国側の立場を擁護する主張の中には、日清戦争で敗戦国となった清国には、尖閣諸島のような絶海の小島を問題にするゆとりがなかった、とする見解もある。しかし、国際法上の抗議は、戦争の帰趨とは無関係にいつでもできるものである。もし、尖閣諸島が台湾に属すると認識していたのなら、講和条約の交渉過程でも、またその後でも、抗議できたはずである。
このように、日本による尖閣諸島の領有は、日清戦争による台湾・澎湖列島の割譲という侵略主義、領土拡張主義とは性格がまったく異なる、正当な行為であった。
戦後の25年間も異議をとなえず
第二次世界大戦後、中国政府は、サンフランシスコ平和条約について、中華人民共和国が参加したものではなく無効という態度を表明した(1951年9月18日の周恩来外交部長の声明)が、尖閣諸島について、それが米国の施政権下に置かれ、日本への「返還区域」に含められたことは不法と主張するようになったのは、1970年代に入ってからである。戦後の25年間も、尖閣諸島については領有権を主張することはなかったのである。
このように、1970年代にいたる75年間、第二次世界大戦が終了してからも25年間、中国側から日本の領有にたいする異議申し立ても抗議も一度もなされてこなかったことは、戦後も中国側が、尖閣諸島を中国の領土とは認識していなかったことを裏付けている。
逆に、1953年1月8日付の中国共産党機関紙「人民日報」は、「米国の占領に反対する琉球群島人民の闘争」と題して、米軍軍政下の沖縄での日本人民の闘争を報道し、そのなかで、「琉球群島は、わが国台湾の東北および日本九州島の西南の間の海上に散在し、尖閣諸島、先島諸島、大東諸島、沖縄諸島、大島諸島、吐か喇(とから)諸島、大隅諸島など7つの島嶼からなっている」と、「尖閣諸島」という日本の呼称を使って同諸島を日本領土に含めて紹介していた。
また、北京市地図出版社から1958年や1966年に発行された中国全図などでは、尖閣諸島は中国領の外に記載されている。
このように、尖閣諸島が台湾など中国の領土に属するものではなく、中国側も1970年代にいたるまではそのように認識していたことは明白である。
日本の領有は国際法上も明白
日本は1895年1月14日の領有宣言によって、国際法上の先占の法理にもとづいて尖閣諸島を領有した。
先占の法理は、特定の条約に明文化されているものではなくて、近代を通じての主権国家の慣行や国際裁判所(国際仲裁裁判や国際司法裁判所など)の判例の積み重ねによって国際慣習法として確立してきたものである。その核心として、領有が国際的に認められるには「主権の継続的で平和的な発現」が基本的な要件となる。「平和的な発現」とは、領有にたいして歴史的に異議がとなえられてこなかったことを指す。先占については通例、(1)占有の対象が無主の地であること、(2)国家による領有の意思表示、(3)国家による実効的な支配――この三つが国際法上の条件としてあげられる。また、関係国への領有の通告は、あらかじめ取り決めなどがある場合を除いて、国際法上、一般には義務とはされていない。尖閣諸島にたいする日本の領有は、このいずれの条件も満たしており、国際法上、まったく正当なものである。
一方、領土紛争においては、相手国による占有の事実を知りながらこれに抗議などの反対の意思表示をしなかった場合には、相手国の領有を黙認したとみなされるという法理も、国際裁判所の判例などを通じて、確立してきている。この法理にもとづいて、1895年の日本の領有宣言以来、中国側が75年間にわたって一度も抗議をおこなっていないことは、日本の領有が国際法上、正当なものである決定的な論拠の一つとなる。
このように、尖閣諸島にたいする日本の領有権は、歴史的にも国際法上も明確な根拠があり、中国側の主張には正当性がない。
3、領有に関わる紛争の解決のために
尖閣諸島をめぐる紛争問題を解決するために、何よりも重要なことは、日本政府が、尖閣諸島の領有の歴史上、国際法上の正当性について、国際社会および中国政府にたいして、理を尽くして主張することである。
この点で、歴代の日本政府の態度には、1972年の日中国交正常化以来、本腰を入れて日本の領有の正当性を主張してこなかったという弱点がある。
領土画定を明確にするよい機会であった1978年の日中平和友好条約締結の際に、中国のトウ小平副首相が尖閣諸島の領有問題の「一時棚上げ」を唱えたが、日本側は、日本の領有権を明確な形では主張しなかった。それは、尖閣諸島の領有権が日本にあることについて中国側に確認を申し出ることは「全く要らざることである」(福田首相の衆院外務委員会答弁、1978年10月16日)という立場からの態度だった。
1992年に中国が「領海および接続水域法」を採択し、尖閣諸島を自国領と明記した際には、外務省が口頭で抗議しただけで、政府としての本腰を入れた政治的・外交的対応はなかった。
今回の事件でも、民主党政権は「国内法、司法で対処する」というだけで、肝心の外交的主張を怠ってきた。
このように長期にわたって積極的主張を回避してきたことについて、わが党の議員の質問に閣僚から「中国や国際社会に対して日本の立場を発信してきたかどうかについては、大いに反省するところがある」(9月30日衆院予算委員会)との答弁がなされている。
わが党は、日本政府に、こうした態度をあらため、歴史的事実、国際法の道理にそくして、尖閣諸島の領有の正当性を、国際社会と中国政府に堂々と主張する外交努力を強めることを求める。
同時に、中国政府に対しても、今回のような問題が起こった場合、事態をエスカレートさせたり、緊張を高める対応を避け、冷静な言動や対応をおこなうことを求める。日本と中国との間で、あれこれの問題で意見の違いや行き違いが起こっても、問題をすぐに政治問題にすることを戒め、実務的な解決のルールにのせる努力が大切であり、話し合いで平和的に解決することが何よりも重要である。
日中両国政府は、2008年5月の共同声明の中で「ともに努力して東シナ海を平和・協力・友好の海とする」と合意している。今後さらに、その分野をはじめ日中の「戦略的互恵関係」を発展させ、東アジアの平和と安定に貢献するよう求めるものである。
※参考資料は、以下のアドレスのホームページからダウンロードしてください。
http://www.jcp.or.jp/seisaku/2010/20101004_senkaku_rekisii_kokusaihou.html