もとむら伸子(日本共産党衆議院議員)-
くらし守る

【10・03・13】世直し弁護士 安藤いわおさんを偲ぶ会

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 3月13日、「世直し弁護士」で元衆議院議員の安藤いわおさんを偲ぶ会に参加させていただきました。
 
 安藤いわおさんは、1923年生まれで、八高入学後、学徒動員で大曽根の三菱航空機に狩り出され、空襲にもあいました。
 京都大学法学部に入り、学内の民主化や授業料値上げ反対の運動など取り組み、卒業後、中部日本新聞社(現 中日新聞)に入社。そこでも働く人たちの権利を守る労働運動に取り組みました。しかし、レッドパージによって職場を追放されたのです。言論弾圧・不当解雇は許せないとたたかいの先頭にたちました。そこで、自由法曹団の弁護士の先生方と会い、弁護士になることをすすめられました。1950年8月には、中部日本新聞社と直接交渉して「円満退職」を勝ち取りました。司法試験に何度か挑戦し1961年、弁護士開業。東海地区では初めての民衆のための良心的民主的な法律センターが誕生しました。労働事件をはじめ四日市公害裁判、名古屋新幹線公害裁判などの弁護団としても活躍しました。四日市公害裁判では勝訴しましたが、「四日市の空は変わっていない。先生に国政の舞台へ出てもらわねば」と公害患者の方に言われ、国政に挑戦することを決意。

 1976年、衆議院議員として初当選し、4期にわたって活躍しました。議員生活を終えた後も、人権を守るために名古屋南部法律事務所所長、日本国民救援会愛知県本部会長として奮闘しました。多くの仲間の皆さんに惜しまれながら、2009年11月11日、84歳で亡くなられました。

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 大変恐れ多いことですが、私は、「たたかいを受け継ぐ」ということで、お話をさせていただきました。
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 安藤巌さん、長い間、本当にありがとうございました。

 安藤巌さんは、私が生まれた時には既に弁護士をされて活躍されていました。私が4歳のときに衆議院議員に初当選されました。

 安藤さんの信条は、「労働者の基本的人権を徹底的に守ること」。

 国会での議事録を読ませていただきましたが、変形労働制導入を含む労働基準法の改悪の審議の際は、憲法第25条の「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」この規定、労働基準法第1条の「労働者が人たるに値する生活を営むための必要を充たすべきものでなければならない」という規定を引きながら、労働者の権利、女性の地位向上、保育園にかよう子どもたちの問題、定時制で学びながら働く学生さんのことにも目を配りながら質問をされていました。
 そして8時間労働制を定めたILO第1号条約さえ批准していない。ILO条約を急いで批准し、実行すべきと質問されておりました。
 当時の中曽根康弘総理大臣は、変形労働制は、労働時間短縮のためにやるんだと答弁し、ILO条約の未批准の問題について、順次国内法等を整備して、必要なものは批准するように検討を進めると答弁していました。

 日本共産党の第25回大会で指摘をされている「日本の異常」の問題を安藤さんがいち早く指摘をされていたことに私は驚きました。
 そして、私は、安藤巌さんのその精神は、八田ひろ子さんの国会活動にも受け継がれていたんだと感じました。

 安藤巌さんをはじめ先輩方の「揺るぎない勇気」と「ご苦労」があったからこそ、今の日本共産党があります。先輩方が築いてきてくださった日本共産党が信頼できるからこそ、私は、日本共産党に入りました。

 安藤巌さんの思いを受け継ぎ、やらなければならない課題がいくつもあります。

 7月に迫った参議院選挙、安藤巌さんが願い、求め続けてきたことを一歩でも二歩でも前へ動かすために全力で頑張る決意を申し上げ、安藤巌さんへの追悼の言葉とさせていただきます。

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