もとむら伸子(日本共産党衆議院議員)-
レポート

「被爆79周年原爆犠牲者を偲ぶつどい」

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愛知県原水爆被災者の会(愛友会)の皆様が主催する「被爆79周年原爆犠牲者を偲ぶつどい」に参列しました。
献花をし、追悼のことばを申し上げました。
 
愛友会会長の金本弘さんは、全国には10万6000人の被爆者がおられ、愛知には1300人の被爆者の方々がいますが、平均年齢は86歳で、いつまで生きられるか心が落ち着く日はないとおっしゃり、「被爆80周年を目指し、核兵器禁止条約に入ってもらいたい」と切に訴えました。
 
ちょうど9月2日のNHKドラマ「虎に翼」では、被爆者の方々が原告となり訴えた裁判が描かれていました。
 
 
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追悼のことば
 
愛友会の皆様の「被爆79周年 原爆犠牲者を偲ぶつどい」にあたり、広島、長崎で原爆によって命を奪われたお一人お一人に心から哀悼の意を申し上げます。
また、被爆し、長年、筆舌に尽くしがたい苦しみの中、生き抜いてこられた被爆者の方々に心からお見舞いを申し上げます。
私の父は長崎の被爆者です。今年も8月9日、私は、長崎原爆犠牲者慰霊平和祈念式典に参列いたしました。
父の弟は原爆の光を真正面からあび、内部被爆の影響だと思われますが、赤痢のような症状、ヒックヒックと言いながら息を引き取ったと祖母から聞きました。
罪のないこどもを殺した原爆を許すことはできません。
広島で被爆したサーロ節子さんが、ノーベル平和賞の授賞式で4歳の甥っ子の方のことをお話しされました。「小さな体は溶けて、肉の塊に変わり、見分けがつかないほどでした。死によって苦しみから解放されるまで弱々しい声で水が欲しいと言い続けました。」
こどもたちが核兵器の犠牲になるようなことを二度起こさせないためには、核兵器を廃絶していくしか道はありません。
私が胸に刻んでいるのは、核兵器禁止条約を作るためにご尽力された長崎の被爆者・谷口すみてるさんの言葉です。真っ赤に爛れた背中、死の淵をさまよいながらも生き残った生き証人として、生きている限り、核兵器の廃絶のために被爆の実相を訴え続けることを平和を願う全ての人に誓うとおっしゃっていました。
そして、谷口さんは、「戦後日本は再び戦争はしない、武器は持たないと、世界に公約した「憲法」が制定されました。しかし、今集団的自衛権の行使容認を押しつけ、憲法改正を押し進め、戦時中の時代に逆戻りしようとしています。今政府が進めようとしている戦争につながる安保法案は、被爆者を始め平和を願う多くの人々が積み上げてきた核兵器廃絶の運動、思いを根底から覆そうとするもので、許すことはできません。」と2015年、被爆70周年の長崎市主催の式典で、被爆者代表として語られました。その現場に私はおりました。その怒りに満ちた搾り出すような言葉を聞いた一人として、その言葉をしっかりと胸に刻み、被爆2世としての使命を果たせるように全精力を傾け、努力をしていきたいと思っています。
一人一人の重い命、生き延びても深い深い心の傷が一人一人にあります。
そういう重い重い事実があるのに、軽々しく、核抑止力、核の共有、そして、非核3原則は非現実的だという国会議員がいることは、本当に悔しくてなりません。
この国会を変え、長崎が最後の被爆地であり続けるためにも、核兵器禁止条約に批准する日本、この北東アジアにも核兵器を禁止する地域の条約を作るために皆様ととも全力を上げてまいります。
原爆で命を奪われた方々にたいし、そのことをお誓いし、心からの哀悼の言葉といたします。
 
2024年9月2日
                    日本共産党 
                     衆議院議員 もとむら伸子
 
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