もとむら伸子(日本共産党衆議院議員)-
レポート

「被爆76周年 長崎原爆犠牲者慰霊平和祈念式典」に参列しました。

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 8月9日、「被爆76周年 長崎原爆犠牲者慰霊平和祈念式典」に参列し、11時2分、黙祷しました。
 2021年8月9日現在、原爆死没者名簿登載者数は、18万9163人。
 長崎の原爆の犠牲になったお一人お一人に心からの哀悼の意を表します。

 日本共産党からは、小池晃書記局長、田村たかあき衆議院議員、堀江ひとみ長崎県議、内田隆英長崎市議、大石ふみき長崎市議、中西あつのぶ長崎市議と私もとむら伸子が参列しました。
 小池さんが、党を代表して献花しました。

 平和宣言文起草委員会の皆様で練り上げた「長崎平和宣言」を田上富久長崎市長がスピーチされましたが、
核兵器禁止条約が発効して初めての平和祈念式典にふさわしい中身のあるものでした(下記参照)。

 「日本政府と国会議員に訴えます。
 核兵器による惨禍を最もよく知るわが国だからこそ、第1回締約国会議にオブザーバーとして参加し、核兵器禁止条約を育てるための道を探ってください。日本政府は、条約に記された核実験などの被害者への援助について、どの国よりも貢献できるはずです。そして、一日も早く核兵器禁止条約に署名し、批准することを求めます。
 『戦争をしない』という日本国憲法の平和の理念を堅持するとともに、核兵器のない世界に向かう一つの道として、『核の傘』ではなく『非核の傘』となる北東アジア非核兵器地帯構想について検討を始めてください。」
 「『長崎を最後の被爆地に』
 この言葉を、長崎から世界中の皆さんに届けます。広島が『最初の被爆地』という事実によって永遠に歴史に記されるとすれば、長崎が『最後の被爆地』として歴史に刻まれ続けるかどうかは、私たちがつくっていく未来によって決まります。」
 国会議員としての責任と、一人一人の行動にかかっているということも改めて強く自覚しました。

 92歳の岡信子さんの「平和への誓い」は、救護活動を看護学生としてされた壮絶な経験と核兵器廃絶の一人一人の声、若い世代の人たちが受け継ぐなかで、悲願の核兵器禁止条約の発効へとつながったことなど語られました。核兵器廃絶と平和を訴え続けていくとの力強いスピーチに改めて学ばされました(下記参照)。

 菅首相も挨拶しましたが、何一つ心に響くものはなく、拍手も少ししかありませんでした。
 そもそも式典に遅刻して入ってきました。
 なぜ、心ないと感じることばかりなのでしょうか!
 この現状が悲しくてしかたありませんでした。

 中村法道長崎県知事は、広島高裁が今年7月14日、原告84人全員を被爆者と認める判決を言い渡し国側が上告を断念した「黒い雨訴訟」に触れ「政府は同じ事情にある長崎の『被爆体験者』についても救済の道を開くようお願いする」と求めました。
 グテーレス国連事務総長の挨拶を中満泉事務次長が代読しました。
 もっとも非人道的な兵器である核兵器をなくすことが人類の最大の課題であることを強調していたことが印象に残りました。
 「国連は、戦争の惨害を防ぐために創設されました。全ての国連加盟国には、この目標を達成するために人類史上最大の破壊力を持つ兵器の廃絶を追及する責務があります。」
 児童合唱と合唱 千羽鶴に心洗われる思いをしました。
 核兵器禁止条約に批准する政府をつくる決意をあらたにし、会場をあとにしました。

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長 崎 平 和 宣 言
 今年、一人のカトリック修道士が亡くなりました。「アウシュビッツの聖者」と呼ばれたコルベ神父を生涯慕い続けた小崎登明さん。93歳でその生涯を閉じる直前まで被爆体験を語り続けた彼は、手記にこう書き残しました。
 世界の各国が、こぞって、核兵器を完全に『廃絶』しなければ、地球に平和は来ない。
 核兵器は、普通のバクダンでは無いのだ。放射能が持つ恐怖は、体験した者でなければ分からない。このバクダンで、沢山の人が、親が、子が、愛する人が殺されたのだ。
 このバクダンを二度と、繰り返させないためには、『ダメだ、ダメだ』と言い続ける。核廃絶を叫び続ける。
 原爆の地獄を生き延びた私たちは、核兵器の無い平和を確認してから、死にたい。
 小崎さんが求め続けた「核兵器の無い平和」は、今なお実現してはいません。でも、その願いは一つの条約となって実を結びました。
 人類が核兵器の惨禍を体験してから76年目の今年、私たちは、核兵器をめぐる新しい地平に立っています。今年1月、人類史上初めて「全面的に核兵器は違法」と明記した国際法、核兵器禁止条約が発効したのです。
 この生まれたての条約を世界の共通ルールに育て、核兵器のない世界を実現していくためのプロセスがこれから始まります。来年開催予定の第1回締約国会議は、その出発点となります。
 一方で、核兵器による危険性はますます高まっています。核不拡散条約(NPT)で核軍縮の義務を負っているはずの核保有国は、英国が核弾頭数の増加を公然と発表するなど、核兵器への依存を強めています。また、核兵器を高性能のものに置き換えたり、新しいタイプの核兵器を開発したりする競争も進めています。
 この相反する二つの動きを、核兵器のない世界に続く一つの道にするためには、各国の指導者たちの核軍縮への意志と、対話による信頼醸成、そしてそれを後押しする市民社会の声が必要です。
 日本政府と国会議員に訴えます。
 核兵器による惨禍を最もよく知るわが国だからこそ、第1回締約国会議にオブザーバーとして参加し、核兵器禁止条約を育てるための道を探ってください。日本政府は、条約に記された核実験などの被害者への援助について、どの国よりも貢献できるはずです。そして、一日も早く核兵器禁止条約に署名し、批准することを求めます。
 「戦争をしない」という日本国憲法の平和の理念を堅持するとともに、核兵器のない世界に向かう一つの道として、「核の傘」ではなく「非核の傘」となる北東アジア非核兵器地帯構想について検討を始めてください。
 核保有国と核の傘の下にいる国々のリーダーに訴えます。
 国を守るために核兵器は必要だとする「核抑止」の考え方のもとで、世界はむしろ危険性を増している、という現実を直視すべきです。次のNPT再検討会議で世界の核軍縮を実質的に進展させること、そのためにも、まず米ロがさらなる核兵器削減へ踏み出すことを求めます。
 地球に住むすべての皆さん。
 私たちはコロナ禍によって、当たり前だと思っていた日常が世界規模で失われてしまうという体験をしました。そして、危機を乗り越えるためには、一人ひとりが当事者として考え、行動する必要があることを学びました。今、私たちはパンデミック収束後に元に戻るのではなく、元よりもいい未来を築くためにどうすればいいのか、という問いを共有しています。
 核兵器についても同じです。私たち人類はこれからも、地球を汚染し、人類を破滅させる核兵器を持ち続ける未来を選ぶのでしょうか。脱炭素化やSDGsの動きと同じように、核兵器がもたらす危険についても一人ひとりが声を挙げ、世界を変えるべき時がきているのではないでしょうか。
 「長崎を最後の被爆地に」
 この言葉を、長崎から世界中の皆さんに届けます。広島が「最初の被爆地」という事実によって永遠に歴史に記されるとすれば、長崎が「最後の被爆地」として歴史に刻まれ続けるかどうかは、私たちがつくっていく未来によって決まります。この言葉に込められているのは、「世界中の誰にも、二度と、同じ体験をさせない」という被爆者の変わらぬ決意であり、核兵器禁止条約に込められた明確な目標であり、私たち一人ひとりが持ち続けるべき希望なのです。
 この言葉を世界の皆さんと共有し、今年から始まる被爆100年に向けた次の25年を、核兵器のない世界に向かう確かな道にしていきましょう。
 長崎は、被爆者の声を直接聞ける最後の世代である若い皆さんとも力を合わせて、忘れてはならない76年前の事実を伝え続けます。
 被爆者の平均年齢は83歳を超えています。日本政府には、被爆者援護のさらなる充実と、被爆体験者の救済を求めます。
 東日本大震災から10年が経過しました。私たちは福島で起こったことを忘れません。今も続くさまざまな困難に立ち向かう福島の皆さんに心からのエールを送ります。
 原子爆弾によって亡くなられた方々に哀悼の意を捧げ、長崎は、広島をはじめ平和を希求するすべての人々とともに「平和の文化」を世界中に広め、核兵器廃絶と恒久平和の実現に力を尽くしていくことを、ここに宣言します。
2021年(令和3年)8月9日
長崎市長   田 上 富 久

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平和への誓い
 ふるさと長崎で93回目の夏を迎えました。大好きだった長崎の夏が76年前から変わってしまいました。戦時下は貧しいながらも楽しい生活がありました。しかし、原爆はそれさえも奪い去ってしまったのです。
 当時、16歳の私は、大阪第一陸軍病院大阪日本赤十字看護専門学校の学生で、大阪の大空襲で病院が爆撃されたため、8月に長崎に帰郷していました。長崎では、日本赤十字社の看護婦が内外地の陸・海軍病院へ派遣され、私たち看護学生は自宅待機中でした。8月9日、私は現在の住吉町の自宅で被爆して、爆風により左半身に怪我を負いました。
 被爆3日後、長崎県日赤支部より「キュウゴシュットウセヨ」との電報があり、新興善救護所へ動員されました。看護学生である私は、衛生兵や先輩看護婦の見様見真似で救護に当たりました。3階建ての救護所には次々と被爆者が運ばれて、2階3階はすぐにいっぱいとなりました。亡くなる人も多く、戸板に乗せ女性2人で運動場まで運び出し、大きなトラックの荷台に角材を積み重ねるように遺体を投げ入れていました。解剖室へ運ばれる遺体もあり、胸から腹にわたりウジだらけになっている遺体を前に思わず逃げだそうとしました。その時、「それでも救護員か!」という衛生兵の声で我に返り頑張りました。
 不眠不休で救護に当たりながら、行方のわからない父のことが心配になり、私自身も脚の傷にウジがわき、キリで刺すように痛む中、早朝から人馬の亡きがらや、瓦礫で道なき道を踏み越え歩き、辺りが暗くなるまで各救護所を捜しては新興善へ戻ったりの繰り返しでした。大怪我をした父を時津国民学校でやっと捜すことができました。「お父さん生きていた! 私、頑張って捜したよ!」と泣いて抱きつきました。
 父を捜す途中、両手でおなかから飛び出した内臓を抱えぼうぜんと立っている男性、片脚で黒焦げのまま壁に寄りかかっている人、首がちぎれた乳飲み子に最後のお乳を含ませようとする若い母親を見ました。道ノ尾救護所では、小さい弟をおぶった男の子が「汽車の切符を買ってください」と声を掛けてきました。「どこへ行くの?」と聞くと、お父さんは亡くなり、「お母さんを捜しに諫早か大村まで行きたい」と、私より幼い兄弟がどこにいるか分からない母親を捜しているのです。救護しながら、あの幼い兄弟を思い、胸が詰まりました。
 今年1月に、被爆者の悲願であった核兵器禁止条約が発効しました。核兵器廃絶への一人一人の小さな声が世界中の大きな声となり、若い世代の人たちがそれを受け継いでくれたからです。
 今、私は大学から依頼を受けて「語り継ぐ被爆体験」の講演を行っています。
 私たち被爆者は命ある限り語り継ぎ、核兵器廃絶と平和を訴え続けていくことを誓います。
2021年(令和3年)8月9日
被爆者代表  岡 信子

 

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