【NHKスペシャル「戦慄のインパール」視聴メモ】
ビルマからインド北東部インパールへ向けて
470キロの行軍
誰一人たどり着けず、3万人が犠牲となった
日本とたたかったイギリスのフィルム
補給を度外視
水を飲む アメーバ赤痢で死ぬ
人を切って食べる
白骨街道
おきっぱなしできた
戦後、責任に向き合おうとしなかった
イギリスの膨大な秘密資料
新たな証言などで明らかになる
日本軍の実相
インパール作戦
13577人の戦没者名簿入手
なくなった日時、場所など地図に落とした
1944年3月 インパール作戦開始
三週間で攻略すると言われていたが終わらず
結局、多くの死者を出して開始から4カ月後中止
撤退は12月でも完了しなかった
半数以上が中止後亡くなった
盧溝橋事件にかかわった牟田口中将が司令官だった
牟田口中将の遺品 陸軍時代の数々の勲章
孫が取材に応じた
父はアンチだった
遺品は見たくないけど捨ててはいけないと残した
1965年 牟田口中将の録音
大東亜戦争に勝ちたい 戦況を好転させたいとの思いだったと語る
日本軍は、ビルマ制圧
イギリス軍はインドに移動
大本営はインド進行を検討したが保留した
1943年 太平洋でアメリカに連敗
イギリス軍は、ビルマの奪還のために反撃していた
大本営
↓
南方軍
↓
ビルマ方面軍
↓
第15軍
東條氏と牟田口氏は同期
牟田口氏は、大本営の意向と聞いて何としてもやりたいと
小畑信良参謀長は、強行に反対
やらなくていい作戦だったと言っていた
小畑参謀長は、兵たんの専門家
兵たんの観点から作戦はやるべきでないとの意見
ビルマに赴任したが、牟田口司令官と意見あわず
盧溝橋時代の上司と部下の関係もあった
杉山参謀総長
寺内氏
河辺ビルマ方面軍司令官
牟田口氏
結局、杉山参謀総長の人情論に押された
1944年1月7日
インパール作戦が許可された
人間関係できまった
司令部はとうじのままのこっている
1944年2月の23歳の牟田口司令官についていた齋藤少尉の記録
牟田口司令官は、盧溝橋は私がはじめた。後始末も私が。
経理部長
補給は全く不可能と言った
「卑怯もの」「大和魂」云々で一蹴
インパール作戦は、33師団、15師団、31師団の9万人が参加
3週間分の食料を渡された
軍票くばって食料確保
村人曰く、牛ももっていってしまった
敵から武器と食料を取れと命令
1944年3月8日
インパール作戦開始
夜間に川を渡る
集めた牛 半数流される
アラカン山系
様々なものを解体して運ぶ
馬が踏み外して転落
部族が点在して日本兵はここでも食料調達
1000人の食料 集められない
戦うまえに消耗
作戦開始から2週間で、イギリスと激戦
33師団 1000人以上の死傷者 大敗北
日本兵の遺骨 今も
33師団柳田師団長
3週間では無理と進言
作戦変更の進言数々
「善処しろとは何事だ ばかやろー」
「どのくらいの損害で」との話のなかで、「5000人の損害」との話もあった
まるで虫けらのように集められる兵士
参謀部の将校から何人の損害をだせばとれるかとやり取り
コヒマのたたかい
コヒマをとることで攻略できると考えていた
イギリスの戦力は一変
イギリスの10時間の映像があった
イギリスは、航空機による250トンの補給体制を構築していた
一方、日本軍は、コヒマいたった時点で
補給された食料はほとんど消費
補給もなく絶望的だった
イギリス軍は三差路が見える丘に拠点をかまえた
戦闘は3週間
日本軍は、肉薄攻撃
爆弾をかかえ敵にむかっていく
現地の人も大変な目に遭ったと言う
凄惨なコヒマの記事は華々しく報道
朝日、毎日にはいい話する
うそでもええと景気よい話をした
イギリスの資料
東條の秘書官
秦中将は成功は極めて低いと報告
東條は話をさえぎった
天皇には補給なんとかなる、方針の貫徹すると報告
全滅してもいいからとれということだった
1944年5月中旬
三人の師団長を全員更迭
司令官の異様な姿
死体の仕分けからはじまる
牟田口司令官“インパールをおとさしたまえ” と神がかり
牟田口司令官は、33師団で直接陣頭指揮をとるようになった
スリム司令官
イギリスは、日本軍の補給がつきるのを待つ持久戦を考えていた
日本兵が多く死んだので、レッドヒルと言われる地名
日本軍にたたかう力はなかった
武器も弾薬もないなかで一週間で800人亡くなった
日本は、多くの兵がいるように見せかける音を出していた
血と土にまみれた記録
砲弾をうけ「クヤシイ」とシス
生き残った人の証言
「天皇陛下万歳」と言う人は少なく
お母さん、お父さんの名前で死んでいく
1944年6月 雨季に入る
一月1000ミリ 30年に一度の雨
1万人近くが死んでいた
6月5日
牟田口司令官のところに河辺ビルマ方面軍司令官が訪れる
牟田口司令官は、作戦は難しいと言おうという衝動にかられたが言えなかった
任務の遂行が軍の絶対任務
7月1日 大本営もインパール作戦の中止決定
作戦中止後に6割の兵士が命を落とした
33師団 攻撃さらされながら撤退 400キロ イギリス軍執拗に攻撃
数えきれない日本兵が自死
足に傷をおった兵士は、仲間を置いてきたと悔やむ
撤退路を「白骨街道」とよんだ
牟田口司令官は途中で離脱、帰国
密林の中で、マラリア、赤痢
死者の半数は病気や餓えで亡くなった
31師団 たどり着いた村に食料はなかった
弱った兵士は、インドヒョウやハゲ鷹にも食べられた
日本軍兵士の肉を切って物々交換
そこまで落ちぶれていた
病死とかかれたが自死だった兵士もいる
自ら刺す力もなく、刀を上にむけて、その上にかぶさって亡くなった
お母さんがいたので、病死としか言えなかった
7月26日の齋藤少尉の記述
死んだら 身ぐるみはがされ 肉を食われる
太平洋戦争でもっとも無謀と言われるインパール作戦
この事実とどう向き合ったのか
牟田口司令官は、インパール作戦は上司の指示だったと証言
大本営の服部作戦課長は、インド進行について大本営は、いかなる立案もしていないと否定
南方軍、ビルマ軍、第15軍の責任と言った
牟田口司令官は、1966年77歳で死亡
齊藤少尉はご存命。連合国の捕虜となり、1946年帰国
「死体には兵士が多い。将校、下士官は死んでいない」
「日本の軍隊の上層部 悔しいけれど
兵隊に対する考えはそんなもんです」
「知ってしまった 悔しい」
国家の指導者に疑念を抱く
世にこれほど悲惨事があるか