4月27日、豊田市猿投地域の戦争遺跡をまわり、証言者のお話をお伺いする「第14回平和リレー講座」に参加しました。
80人が参加し、事前の準備、証言などに協力してくださった方を加えると100人の企画でした。
豊田市平和委員会、新日本婦人の会豊田支部、豊田市平和を願い戦争を記録する会、年金者組合豊田支部の皆さんが呼びかけられた企画です。
日本は、1931年、中国の東北部への侵略戦争を、1937年には中国への全面侵略戦争を開始して、第二次世界大戦に道を開く最初の侵略国家となりました。1940年、ヨーロッパにおけるドイツ、イタリアのファシズム国家と軍事同盟を結成し、1941年には、中国侵略の戦争をアジア・太平洋全域に拡大して、第二次世界大戦の推進者となりました。
この日本がおこした戦争によって、私の住んでいる豊田市猿投の地域でも655名の戦死者など多くの方々が犠牲になり、尊い命が奪われました。
戦争の犠牲になった方々に心よりの哀悼の意を表します。
そして、安倍首相が進めている集団的自衛権行使容認など戦争する国づくりは絶対に許さない決意をいっそう強くしています。
◆学童疎開を受け入れた如意寺
1944年8月に、名古屋市西区の幅下小学校の学童集団疎開を受け入れた如意寺を訪問。
如意寺には4年生以上の男子児童が疎開、近くの広昌寺には女子児童が疎開し、合わせて168名が名古屋から来たそうです。
◆捕虜収容施設だった広済寺
1944年文化人類学者のフェスコ・マライーニさんはじめ15人のイタリア人が「捕虜」として生活した捕虜収容施設だった広済寺を訪問。4人の警察官がいつも監視していたそうです。フェスコさんたちは、食べるものがなく苦労したそうですが、夜にこっそり抜け出して農家の養蚕の手伝いをして、キナウリやサツマイモをもらったり、お寺のおばあさんが本堂のお供えを山盛りにして、イタリア人の子どもたちが食べるのを見て見ぬふりをしていたそうです。
(日独伊三国同盟を組んでいたイタリア人がなぜ捕虜に?1943年10月連合国に降伏したイタリアはドイツに宣戦し、同盟を破棄し、敵国となったからか?)
終戦直後には、連合軍が救援物資をパラシュートで投下し、15人しかいないのに100人分の物資をドラム缶につめて落としたそうです。そのパラシュートの紐を見せていただきました。
◆御船区民会館で朝鮮半島出身者の「農耕勤務隊」の証言を伺う
太平洋戦争末期、日本は絶対的な兵士不足、農業生産者不足を補うために、1944年11月、日本の植民地だった朝鮮に徴兵制が導入され、1945年1月30日「軍令陸甲代60号『農耕勤務隊臨時動員要綱』が発令され、1945年4月以降、朝鮮の兵士1万3000人が日本に連れてこられ、食料増産、農地開拓、松根油作りなどの業務に従事されられました。この朝鮮の人々の軍隊を「農耕勤務隊」といったそうです。
「農耕勤務隊」の存在を明らかにしたのは、豊田市御船町出身で青山学院大学名誉教授の雨宮剛さんです。日本国内、韓国にも調査に行き、『もう一つの強制連行 なぞの農耕勤務隊』を出版されました。
豊田市御船町や豊田市青木町の138.8haは、この朝鮮半島から連れてこられた「農耕勤務隊」の方々(猿投の地域に250名とのこと)が開墾された地とのことです。
近くに住んでみえた方の証言では、将校のような日本人に中学生くらいの小さな子がムチでたたかれる音、泣き声がよく聞こえ、見ている方がかわいそうで泣けてきたそうです。
1945年8月15日、玉音放送があり、日本は戦争に負けました。国に帰れると木炭トラックの荷台のうえで、本当に喜んで「アリラン」を歌っていたそうです。
◆朝鮮半島出身者の「農耕勤務隊」が宿泊していた浄厳寺
前日に突然連絡があり、「農耕勤務隊」が宿泊する場所を提供しろと言われ、お寺の本堂を提供したそうです。本堂は40畳でそこに50名くらいの人がいたとのこと。住職のご家族6人は、慌てて4畳半と6畳間に移動。
16歳~20歳くらいの子とみえた「農耕勤務隊」の仕事は、松の木の根の油とり。掘りつくすとサツマイモを植えていたそうです。
浄厳寺にいた「農耕勤労隊」は、毎日、御船町の南部、平戸橋、申原、桜台、滝方面へ行き、今の猿投運動公園のあたりでは、チョマという麻布の原料をつくっていたそうです。
「農耕勤労隊」への体罰は何度も見、日本帝国主義を罵倒する若者などは寺の中にある太い松の木(現在、2代目)に縛られ、青竹でたたかれうなだれるまで続いたとのこと。多くは強引に連れてこられたのではないか、今の拉致問題とも重なります。
御船には、朝鮮から来た森本仙太郎さんが、耐火レンガの原料となる粘土を掘る工場と鉱山をもっており、終戦前から中国地方や瀬戸方面から来た朝鮮人が多くいたそうです。朝鮮半島出身の方が1000人もいたとのお話もありました。浄厳寺では、朝鮮半島出身の方々の葬儀も行い、お墓も出身地がわかるお墓も少なくないとのこと。
ご住職は、学徒動員で伊保原海軍航空隊へ行き、草薙隊も見送っているそうです。そして、かなりの量のお酒を飲ませて、立てない兵士をみんなで載せて、出発させている光景をみたそうです。
◆63人が特攻死・特攻隊が飛び立った名古屋海軍航空隊(伊保原飛行場)
現在の名鉄浄水駅周辺には、かつて特攻隊が飛び立った伊保原飛行場がありました。
1939年3月、愛知航空機株式会社(前愛知時計電機)の試験飛行場として木造格納庫1棟、約1kmの滑走路一本からはじまりました。1941年10月、霞ケ浦航空隊の分遣隊が移住し、翌1942年4月1日分遣隊は名古屋海軍航空隊として独立。その専用飛行場となりました。
戦争拡大にともなって付近の小学生を含む人々の勤労奉仕などで順次整備され、3本の滑走路ができました。
太平洋戦争末期の1944年9月からは、従来の陸上機操縦教育のほかに艦上爆撃機の操縦訓練がなされ、その後、練習機部隊は、岡崎第三海軍航空隊(豊田市桝塚町)に移動し、艦上爆撃機の特別訓練を受けた後、九州の第二国分基地に移動、「草薙隊」と呼ばれた特別攻撃隊(特攻隊)となり、 1945年4月6日から6月3日まで3回沖縄戦に出撃、合計63名の尊い若い生命が失われました。
「神風特別攻撃隊草薙隊建立趣意書碑」や、今や竹藪のなかに埋もれている名古屋海軍航空隊通信壕跡、対空砲の射撃場跡などもみさせていただきました。
◆戦争で実現しなかった幻の名鉄足助延長線の跡地、◆若者が出征していった西中金駅(現在、廃線)、◆『七つの子』『赤い靴』などの作品を生んだ野口雨情所縁の野口町の歌碑、◆豊田市の歴史に掲載された写真の中で一番大きな梵鐘を供出した永澤寺(ようたくじ)も訪ねました。
お話をお聞きした80代の証言者の皆さんは、口々に「戦争だけはしてはいけない」と語っておられました。
こうした戦争の歴史、証言、戦争遺跡をしっかりと記録し、保存し、伝えていくことは、戦争をなくしていく大きな力になると思います。
豊田市は、雨宮剛さんの『もう一つの強制連行 なぞの農耕勤務隊』の寄贈の願いも退けたそうで、とても残念に思います。
豊田市は、こうした郷土の戦争の歴史にたいしてもしっかりと向き合い、子どもたちに伝える努力をするべきです。
そうした思いも強くした「平和リレー講座」でした。
準備をしてくださった皆様、協力してくださった皆様、本当にありがとうございました!!