4月21日、名古屋地方裁判所で、刈谷市職員の倉田康弘さんの過労死認定裁判の判決がありました。
結果は、「公務は過重とは認められない」という不当判決でした。
原告で妻の利奈さんは涙を流しながら、「くやしい思いです。判決のどれひとつ納得できません。公務員災害補償基金は、遺族を救済する制度です。必死に証拠を集めてきました。でも、ほとんど採用されていません。一生懸命働いた夫の働きが全く認められず、長時間労働、サービス残業。これでは誰も救われない。控訴してたたかいます」と訴えました。
弁護団は、具体的な数字をあげて、持ち帰り残業を除いても、過労死認定基準の目安である月80時間以上の残業があったとしています。
そして、持ち帰り残業を加えれば、1カ月前から6カ月前まで100時間を越える残業があったとしています。
しかし、名古屋地方裁判所は、8月―44時間59分、9月―64時間15分、10月―66時間04分、11月―58時間23分、12月―59時間13分の残業しか認めませんでした。
そして、地方公務災害補償基金支部が認めていたよりも残業時間が短く評価されたのです。
それは、持ち帰り残業を認めないことと、実態を見ずに予算の枠内で残業をおさめるために書かれた時間外勤務命令簿、記録簿など形式的な証拠だけを採用したからです。休日出勤、早出出勤などの実態を見ていないからです。
倉田康弘さんは1996年、刈谷市の美術館に配属になりました。98年は機構改革の名の下に副館長が廃職となり4人体制から3人体制(学芸員を除く)になったうえに、上司の館長と業務係長が異動となり共に業務経験のない上司が配属されました。
課長補佐と業務係長が2人でしていた仕事で、2人でやってベテランの職員でも残業をしてこなしていた仕事を1人で背負うことになったのです。
康弘さんは、4月からは週休・休日は所定の半分も取れず、亡くなるまでに取った有給休暇は0・5日のみでした。5月から6月にかけては連続40日間働き続けました。
美術館勤務になってからの康弘さんは、夜遅くまでの時間外勤務や休日出勤に加え、早出出勤、自宅へ持ちかえりのワープロ作業はほとんど毎日続きました。
そして、98年12月30日、くも膜下出血で亡くなりました。亡くなる直前の12月28日から年末にかけて、誰かが美術館に来ていた記録がセコムの開錠記録にあるそうです。刈谷市が誰であったかを職員に聞いて調べても誰も名乗りを上げませんでした。それは、名乗りを上げたくても上げることができなかった倉田康弘さんだったからではないでしょうか。しかし、名古屋地裁は、そのことも証拠がないと認めませんでした。
また、判決では、持ち帰り残業をばっさり切り捨てる、最近の裁判判決のなかでも異例の判決です。
あまりにも機械的な判決です。
主任弁護士の福井悦子弁護士は言われました。「一番くやしいことは、労働時間管理の義務は、使用者側にあるのに、労働者に不利益をすべてかぶせること。」
長時間働かせておいて、それを認めない。こうした理不尽にはしっかりと声をあげて、勝つまでがんばらなくてはなりません。倉田康弘さんの名誉のためにも。