もとむら伸子(日本共産党衆議院議員)-
レポート

2025年8月9日、被爆80周年長崎原爆犠牲者慰霊平和祈念式典に参列し、11時02分に黙祷しました。

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2025年8月9日、被爆80周年長崎原爆犠牲者慰霊平和祈念式典に参列し、11時02分に黙祷しました。
原爆によって命を奪われたお一人お一人に心からの哀悼の意を申し上げます。
父の弟は、幼い命を奪われました。
私は長崎の被爆二世として、被爆者代表の西岡洋さんの「平和への誓い」を胸に刻み、「長崎平和宣言」の立場で努力をし続けなければならないと決意を新たにしました。
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長 崎 平 和 宣 言
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 「1945年8月9日、このまちに原子爆弾が投下されました。あの日から80年を迎える今、こんな世界になってしまうと、誰が想像したでしょうか。
 「武力には武力を」の争いを今すぐやめてください。対立と分断の悪循環で、各地で紛争が激化しています。
 このままでは、核戦争に突き進んでしまう―。そんな人類存亡の危機が、地球で暮らす私たち一人ひとりに、差し迫っているのです。
 1982年、国連本部で被爆者として初めて演説した故・山口仙二さんは、当時の惨状をこう語っています。
  「私の周りには目の玉が飛び出したり 木ギレやガラスがつきささった人、首が半分切れた赤ん坊を抱きしめ泣き狂っている若いお母さん 右にも 左にも 石ころのように死体がころがっていました。」
 そして、演説の最後に、自らの傷をさらけ出しながら、世界に向けて力強く訴えました。
 「私の顔や手をよく見てください。世界の人々 そしてこれから生まれてくる子供たちに私たち被爆者のような 核兵器による死と苦しみを例え一人たりとも許してはならないのであります。」
 「ノー・モア・ヒロシマ ノー・モア・ナガサキ 
 ノー・モア・ウォー  ノー・モア・ヒバクシャ」
 この心の底からの叫びは、被爆者の思いの結晶そのものです。
 証言の力で世界を動かしてきた、被爆者たちの揺るがぬ信念、そして、その行動が評価され、昨年、日本被団協がノーベル平和賞を受賞しました。日本被団協が結成されたのは、1956年。心と体に深い傷を負い、差別や困窮にもがき苦しむ中、「自らを救うとともに、私たちの体験をとおして人類の危機を救おう」という結成宣言をもって、長崎で立ち上がりました。
 「人類は核兵器をなくすことができる」。強い希望を胸に、声を上げ続けた被爆者の姿に、多くの市民が共感し、やがて長崎に「地球市民」という言葉が根付きました。この言葉には、人種や国境などの垣根を越え、地球という大きな一つのまちの住民として、ともに平和な未来を築いていこうという思いが込められています。
 この「地球市民」の視点こそ、分断された世界をつなぎ直す原動力となるのではないでしょうか。
 地球市民である、世界中の皆さん。
 たとえ一人ひとりの力は小さくとも、それが結集すれば、未来を切り拓く大きな力になります。被爆者は、行動でそう示してきました。
 はじめの一歩は、相手を知ることです。対話や交流を重ね、互いに理解し、小さな信頼を重ねていく。これは、私たち市民社会の大きな役割です。
 私たちには、世界共通の言語ともいえるスポーツや芸術を通じて、また、発達した通信手段を使って、地球規模で交流する機会が広がっています。
 今、長崎で、世界約8,500都市から成る平和首長会議の総会を開いています。市民に最も身近な政府である自治体も絆を深め、連帯の輪を広げています。
 地球市民として、共感と信頼を積み重ね、平和をつくる力に変えていきましょう。
 地球市民の一員である、すべての国の指導者の皆さん。
 今年は、「戦争の惨禍を繰り返さない」という決意のもと、国連が創設されてから80年の節目でもあります。今こそ、その礎である国連憲章の理念に立ち返り、多国間主義や法の支配を取り戻してください。
 来年開催される核兵器不拡散条約(NPT)再検討会議は、人類の命運を左右する正念場を迎えます。長崎を最後の被爆地とするためには、核兵器廃絶を実現する具体的な道筋を示すことが不可欠です。先延ばしは、もはや許されません。
 唯一の戦争被爆国である日本政府に訴えます。
 憲法の平和の理念と非核三原則を堅持し、一日も早く核兵器禁止条約へ署名・批准してください。そのためにも、北東アジア非核兵器地帯構想などを通じて、核抑止に頼らない安全保障政策への転換に向け、リーダーシップを発揮してください。
 平均年齢が86歳を超えた被爆者に、残された時間は多くありません。被爆者の援護のさらなる充実と、未だ被爆者として認められていない被爆体験者の一刻も早い救済を強く要請します。
 原子爆弾で亡くなられた方々とすべての戦争犠牲者に、心から哀悼の誠を捧げます。
 被爆80年にあたり、長崎の使命として、世界中で受け継ぐべき人類共通の遺産である被爆の記憶を国内外に伝え続ける決意です。永遠に「長崎を最後の被爆地に」するために、地球市民の皆さんと手を携え、核兵器廃絶と世界恒久平和の実現に力を尽くしていくことをここに宣言します。
2025年(令和7年)8月9日 長崎市長 鈴木 史朗」
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被爆者代表 西岡洋さん(93歳)
「平和への誓い」
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「1945年8月9日、私は爆心地から3.3キロメートルの県立長崎中学校の校舎内で被爆しました。
13歳の時でした。
「敵大型2機、島原半島を西進中」という西部軍管区の放送を生徒が大声で職員室に向かって報告しているのを聞いてから、何分も経たないうちに敵機の爆音が聞こえてきたかと思うと、その音が急に大きくなりました。
次の瞬間、身体がすごい光に包まれ、私は「学校のテニスコートに爆弾が落とされた」と思い、小学生の時から訓練されていたとおり、目と耳を塞いだ姿勢を取り、床に伏せました。
爆発の瞬間は、オレンジ色と黄色が混じったような光の海の中に一瞬全身が埋もれたような感覚でした。
続いて、すさまじい爆風で窓ガラスが破壊され、私は部屋の隅に頭を抱えて転がり込みました。
その上に級友が折り重なってきたため、その体重で息もできない有様でした。
しかし私は級友たちの下敷きになったおかげで、無傷で済んだのです。
級友たちはナイフのように尖った割れた窓ガラスが体に刺さり、血だらけになっていました。
さらに外を見渡すと、家々は壊れているのに火災は全く起きておらず、煙すら上がっていないのに、浦上地区には大きな火柱が上がっている。
一発の爆弾だったはずなのに広範囲に被害が及んでいるのはどうしてかと、不思議に思いました。
その後、学校の防空壕に二時間ほど避難していたでしょうか。
もう大丈夫だろうと、帰宅の途についた道は避難してくる人たちであふれかえっていました。
火傷か切り傷なのかわからない血まみれの男性。
顔から血を流している赤ちゃんを抱いて歩く母親。
腕が切れて垂れ下がっているのではないかと思われる人。
こういう人々が中川町から蛍茶屋の方向に群れをなして歩いてくるのです。
薄暗い雲が長崎の空一面を覆い、辺りは夏の真昼だというのに、あたかも日食のようでした。
こうして8月9日が過ぎ、戦争が終わりました。
この爆弾が原子爆弾というものだと知らされたのは戦争終結後のことでした。
原爆の恐怖はさらに続きました。
それは原爆による後遺症です。
爆心地付近にいたけれども、頑丈な塀で守られ、軽傷で済んだ人や、地下工場で仕事をしていて無傷で帰宅した人たちもいました。
ところが、それらの幸運な人たちも、次第に歯茎から出血し、髪の毛が抜け落ちて次々に亡くなっていったのです。
薬もなく、治療方法も分からず、戦争が終わったというのに原爆は目に見えない恐怖をもたらしたのです。
昨年、私が所属する「日本被団協」がノーベル平和賞を受賞しました。
これは私たちの活動が世界平和の確立に寄与していることが評価されたということに他なりません。
そして、この受賞を契機として、世界中の人々が私たちを見てくれていることに大きな意義を感じました。
平和に繋がるこの動きを絶対に止めてはいけない、さらに前進させよう、そして、仲間を増やしていくことが、私たちが目標とするところです。
絶対に核兵器を使ってはならない、使ったらすべてがおしまいです。
皆さん、この美しい地球を守りましょう。
令和7年8月9日 被爆者代表 西岡洋」

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