もとむら伸子(日本共産党衆議院議員)-
レポート

長崎に原爆が落とされ、78年がたちました

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黙祷。
8月9日、長崎に原爆が落とされ、78年がたちました。
原爆によって命を奪われたお一人お一人に心から哀悼の意を申し上げます。
「長崎を最後の被爆地に」
被爆者の方々の魂の叫び、願いのこもった核兵器禁止条約に批准し、世界の中で核廃絶に力強く役割を果たす国にする決意です。
 
 
今年の8月9日は、台風6号の影響で、長崎市主催「被爆78周年長崎原爆犠牲者慰霊平和祈念式典」は「主催者(長崎市)のみ」となり、参列はかないませんでした。
台風を避けるために移動しなければならず、広島で下車し、広島平和記念公園で献花をし、平和憲法を守り生かし、戦争と核兵器をなくす決意を捧げ、「被爆78周年長崎原爆犠牲者慰霊平和祈念式典」を視聴しました。
 
私と同じ被爆2世の鈴木史朗長崎市長が読み上げた「長崎平和宣言」(起草委員会で練り上げられたもの)には、命尽きるまで懸命に国際社会に核兵器の廃絶を訴えていた谷口稜曄(すみてる)さんの言葉が盛り込まれていました。
 
2015年、戦争法と言われる安保法制を強行しようとしていた安倍総理も参列していた「被爆70周年長崎原爆犠牲者慰霊平和記念式典」で、絞り出すような声で「平和への誓い」をされた谷口稜曄さんの姿を忘れることはできません。
 
 
 
私が胸に刻んでいる谷口稜曄さんの「平和への誓い」の一部をご紹介します。
 
「戦後日本は再び戦争はしない、武器は持たないと、世界に公約した『憲法』が制定されました。しかし、今集団的自衛権の行使容認を押しつけ、憲法改正を押し進め、戦時中の時代に逆戻りしようとしています。今政府が進めようとしている戦争につながる安保法案は、被爆者を始め平和を願う多くの人々が積み上げてきた核兵器廃絶の運動、思いを根底から覆そうとするもので、許すことはできません。
 核兵器は残虐で人道に反する兵器です。廃絶すべきだということが、世界の圧倒的な声になっています。
 私はこの70年の間に倒れた多くの仲間の遺志を引き継ぎ、戦争のない、核兵器のない世界の実現のため、生きている限り、戦争と原爆被害の生き証人の一人として、その実相を世界中に語り続けることを、平和を願うすべての皆さんの前で心から誓います。」
 
岸田文雄総理大臣のもとで、「平和主義を放棄し、真の軍事大国」への道を加速しているように思えてなりません。
いっそう平和憲法を守り、生かすために全精力を注ぐ決意をし、長崎、広島をあとにしました。
 
 
長崎平和宣言(全文)をぜひお読みください。
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長 崎 平 和 宣 言
 「突然、背後から虹のような光が目に映り、強烈な爆風で吹き飛ばされ、道路に叩きつけられました。背中に手を当てると、着ていた物は何もなく、ヌルヌルと焼けただれた皮膚がべっとり付いてきました。3年7か月の病院生活、その内の1年9か月は背中一面大火傷のため、うつ伏せのままで死の淵をさまよいました。私の胸は床擦れで骨まで腐りました。今でも胸は深くえぐり取ったようになり、肋骨の間から心臓の動いているのが見えます。」
 これは16歳で被爆し、背中に真っ赤な大火傷を負った谷口稜曄さんが語った体験です。
 1945年8月9日午前11時2分、長崎の上空で炸裂した1発の原子爆弾により、その年のうちに7万4千人の命が奪われました。生き延びた被爆者も、数年後、数十年後に白血病やがんなどを発症し、放射線の影響による苦しみや不安を今なお抱えています。
 谷口さんは6年前にこの世を去りましたが、生前、まさに今の世界を予見したかのような次の言葉を遺しました。
 「過去の苦しみなど忘れ去られつつあるようにみえます。私はその忘却を恐れます。忘却が新しい原爆肯定へと流れていくことを恐れます。」
 長期化するウクライナ侵攻の中で、ロシアは核兵器による威嚇を続けています。他の核保有国でも核兵器への依存を強める動きや、核戦力を増強する動きが加速し、核戦争の危機が一段と高まっています。
 今、私たちに何が必要なのでしょうか。
 「78年前に原子雲の下で人間に何が起こったのか」という原点に立ち返り、「今、核戦争が始まったら、地球に、人類にどんなことが起きるのか」という根源的な問いに向き合うべきです。
 今年5月のG7広島サミットでは、参加各国リーダーがそろって広島平和記念資料館を訪れ、被爆者と面会し、被爆の実相を知ることの重要性を自らの行動で世界に示しました。また、このサミットの成果文書である「核軍縮に関するG7首脳広島ビジョン」では、「核戦争に勝者はいない。決して戦ってはならない」ということが再確認されました。
 しかし、この広島ビジョンは、核兵器を持つことで自国の安全を守るという「核抑止」を前提としています。核抑止の危うさはロシアだけではありません。核抑止に依存していては、核兵器のない世界を実現することはできません。私たちの安全を本当に守るためには、地球上から核兵器をなくすしかないのです。
 核保有国と核の傘の下にいる国のリーダーに訴えます。
 今こそ、核抑止への依存からの脱却を勇気を持って決断すべきです。人間を中心に据えた安全保障の考えのもと、対決ではなく対話によって核兵器廃絶への道を着実に歩むよう求めます。
 日本政府と国会議員に訴えます。
 唯一の戦争被爆国の行動を世界が見つめています。核兵器廃絶への決意を明確に示すために、核兵器禁止条約の第2回締約国会議にオブザーバー参加し、一日も早く条約に署名・批准してください。そして、憲法の平和の理念を堅持するとともに、朝鮮半島の非核化、北東アジア非核兵器地帯構想など、この地域の軍縮と緊張緩和に向けた外交努力を求めます。
 地球に生きるすべての皆さん、一度立ち止まって、考えてみてください。
 被爆者は、思い出すのも辛い自らの被爆体験を語ることで、核兵器がいかに非人道的な兵器であるのかを世界に訴え続けてきました。この訴えこそが、78年間、核兵器を使わせなかった「抑止力」となってきたのではないでしょうか。
 その被爆者の平均年齢は、今年85歳を超えました。被爆者がいなくなる時代を迎えようとしている中、この本当の意味での「抑止力」をこれからも持ち続けられるか、そして核兵器を廃絶できるかは、私たち一人ひとりの行動にかかっています。
 被爆地を訪れ、核兵器による結末を自分の目で見て、感じてください。そして、世界中で語り継ぐべき人類共通の遺産ともいえる被爆者の体験に耳を傾けてください。
 被爆の実相を知ることが、核兵器のない世界への出発点であり、世界を変えていく原動力にもなり得るのです。
 私は、両親ともに被爆者である被爆二世です。「長崎を最後の被爆地に」するため、私を含めた次の世代が被爆者の思いをしっかりと受け継ぎ、平和のバトンを未来につないでいきます。
 日本政府には、被爆者援護のさらなる充実と一日も早い被爆体験者の救済を強く求めます。
 原子爆弾により亡くなられた方々に心から哀悼の意を捧げるとともに、長崎は、広島、沖縄、そして放射能の被害を受けた福島をはじめ、平和を希求するすべての人々と連帯し、「平和の文化」を世界中に広め、核兵器廃絶と世界恒久平和の実現に力を尽くし続けることをここに宣言します。
 2023年(令和5年)8月9日
長崎市長  鈴木 史朗
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「平和への誓い」
被爆者代表 工藤武子さん(85歳)
 78年前の8月9日、7歳の私は爆心地から約3キロの片淵町の自宅で母親や姉、弟2人の5人で食卓を囲んでいました。突然、強烈な閃光(せんこう)が走り、皆一斉に庭先の防空壕(ごう)に駆け込んだ次の瞬間、地響きのような音がして私は母にしがみつきました。しばらくして壕を出てみると、縁側のガラス戸は跡形もなく壊れ、畳ははね上がり、食卓はひっくり返っていました。
 その後勤務先の造船所から帰宅した父は、爆心地に近い城山町の叔父の家に行き、2人の遺体を探し出し、焼け跡で荼毘(だび)に付しました。書斎の瓦礫(がれき)の下にあった叔父の遺体も台所で見つかった叔母の遺体も無残に焼けていたそうです。
 原爆投下直後、私たち家族は無事でしたが、被爆から10年余りたち、次第に体調を崩していった父は肝臓がんと診断され、亡くなりました。臨終の時、父の顔に酸素マスクを当てていた私は、「神様、私の家族をお守りください」という最期の言葉を聞き、涙が止まりませんでした。その後、母と姉、弟、そして被爆時、母の胎内にいた妹までもが、相次いでがんで亡くなりました。私自身も3年前、肺がんの手術を受けました。たった一発の原爆で、長崎ではおよそ7万4千人、広島では14万人がなくなり、生き残った人々の多くも、今なお、さまざまな後遺症に苦しんでいます。
 世界には、長崎や広島で使われた原爆の威力を大きく上回る核弾頭が約1万2500発存在し、ロシアのウクライナ侵略による緊迫した国際情勢の中、この美しい地球は、核兵器によって破壊され汚染される危機にさらされています。核戦争を起こさないために、唯一の戦争被爆国である日本は、今こそ広く世界に広く核兵器の非人道性を伝え、武力によらない平和創造の道筋を指し示し、地球と人類の未来を守るには、核兵器廃絶しかないと強く訴えるべきです。
 私は、今から15年前の2008年の秋から4カ月間、「第63回ピースボート地球一周の船旅」に参加し、船で世界一周をしながら自らの被爆体験を証言しました。そのとき同乗されていたカナダ在住のサーロー節子さんの力強い言動に鼓舞され、帰国後は被爆者団体の理事としてさまざまな活動を始めました。
 現在は、小学校などの平和学習の場で、被爆2世の方々と製作した紙芝居を使い、被爆体験の証言活動に取り組んでいます。これは長崎に原爆が投下された後、救援列車第一号に乗り込み、救護活動にあたった当時20歳の男性の体験をもとに製作したものです。紙芝居を見る純真な子どもたちの姿に触れるたび、私はこの子どもたちが戦争に巻き込まれ、私たちと同じ苦しみに遭うようなことがあってはならないと強く感じています。
 今、わが国には、被爆者の願いをしっかりと受け止め、核兵器廃絶と平和な世界の実現に向けて活動を続けている高校生がいます。高校生平和大使、高校生1万人署名活動をしている若者たちです。さらに私の住む熊本県では高校生が「ヒロシマ・ナガサキピースメッセンジャー・平和の種まきプロジェクト」と題して、同世代や下の世代にむけた平和学習の出前授業も行っています。
 その若者たちの姿に勇気づけられ、私は未来への希望の光を感じています。放射能に汚染された灰色の世界ではなく、命輝く青い地球を次の世代に残すために、これからも力の限り、尽くしていくことを誓います。
 
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