もとむら伸子(日本共産党衆議院議員)-
レポート

【11・04・26】南区公害病患者と家族の会の皆さんの第37回定期総会でごあいさつ&皆さんの命を守るすばらしい活動の歴史を学びました

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 4月26日、午後は、南区公害病患者と家族の会の皆さんの第37回定期総会でごあいさつをさせていただき、田部井康壽会長や伊藤栄相談役のお話で皆さんの活動の歴史、到達点を学びました。港区公害病患者の会の古川巌会長も来賓あいさつされました。
 
 1960年代、1970年代、「高度経済成長」のひずみとして、大気汚染や水俣病、イタイイタイ病など公害問題が深刻化しました。

 名古屋市南区柴田の地域でも、ぜんそく公害病が発生。洗濯物も油でしみたり、夜は星がみえない空、くさい、モノがよくさびるなど被害があったそうです。

 公害患者の皆さんは、1969年ごろからテレビの取材で公害被害を訴えたりしました。1969年1月14日、NHKで「ひどくなる名古屋市南部の公害」と題して公害の実態、患者住民の皆さんの苦しみなど生々と放映されたそうです。

 1970年には、みなみ診療所の患者さんや高校の先生などが、“この地域から公害をなくそう”と「南区から公害をなくす会」を結成。公害根絶と被害者救済の運動を開始しました。

 その後、1971年、公害病で南区源兵衛町の鏡味鉄一さんが公害病でなくなり、1972年に四日市公害裁判の判決を経て、1972年8月6日、みなみ診療所のぜんそく患者が「あおぞら会」を結成し活動を開始。南区で初の大気汚染公害患者会が誕生しました。

 その後、1975年に南区内の患者会を統一し、「南区公害病患者の会」が結成されました。
 最初は、健康回復や公害の実態を明らかにする活動をされたそうです。

 公害補償法はできましたが、法制定直後から財界からの法改悪の攻撃が始まりました。

 経団連がマル秘文書をだして財界ぐるみで公害補償法の改悪や廃止をねらい、臨調行革によって、1986年、公害指定地域の全面解除の法改悪が強行されました。
 皆さんの運動で、これまで認定を受けていた患者さんへの補償は引き続き認められることとなりました。
 二酸化窒素(NO2)環境基準も改悪され、 1時間値の1日平均値が0.02 ppm だった基準を0.04ppmから0.06ppmまでのゾーン内 又はそれ以下であることと規制緩和されてしまいました。

 こうしたもとでも、皆さんは決して負けません。「行政が患者を切り捨てるならば司法の場で患者救済を」と裁判に訴えました。

 2000年11月27日、第一次判決、国・企業に勝利判決(国には差止認める)。2001年8月8日、国・企業と同時に一括和解されました。

 総会では、今後もあたらな大気汚染公害被害者救済制度をめざして頑張り、県や名古屋市にも救済制度の復活・新設を求めて運動を続けていくとの方針が確認され、大変心強く思いました。

 大気汚染公害は、少しも終わっていません。

 表の名古屋市内の子どもたちのなかでも、ぜんそくの持病をもった子どもたちがたくさんいます。

 原発問題でもそうですが、もうけ最優先で、人の命や環境を軽視する政治、社会をどうしても変えていきたいです。

 そうしたあり方を変えるために長年がんばっている公害病患者と家族の会の皆さんに心からの感謝と敬意の気持ちでいっぱいです。

 

名古屋市内で多い小中学校の子どもたちのぜんそく

          小学生は5199人 中学生は2120人
   (南区公害病患者と家族の会の「第37回総会議案書」資料より掲載)
 

公害補償法制定直後からはじまった財界による法改悪の攻撃

              経団連の内部文書
   (南区公害病患者と家族の会の「第37回総会議案書」資料より掲載)
 

午前中は会議

 午前中は、各地の地区委員長の皆さん、常任委員の皆さんと会議。選挙の感想、意見など出し合いました。今後、党内外の皆様のご意見をお伺いして、全面的な総括をすることになります。

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